西成区の歴史【近世】

西成区の歴史 (Wikipedia)
【近世】
近世になると戦乱の舞台となったことを示す記録も残されている。
天正年間(1573年 - 1593年)には本願寺門徒が織田信長と戦い、木津川口の防衛のために城塞を築いたと伝えられる。
区北部にある出城の地名は、このときに築かれた城塞があった場所と伝えられていることに由来している。
区の中部から東部にかけての一帯を指す天下茶屋の地名は、現在の岸里東2丁目にあった茶屋に豊臣秀吉が立ち寄って休憩したことで、
その茶屋が「天下の茶屋」ないしは「殿下の茶屋」といわれたことが由来と伝えられる。
天下茶屋の地名の由来となった茶屋は1945年の大阪大空襲で焼失したが、敷地跡の一部は史跡天下茶屋跡となっている。
区の西部の津守・南津守・北津守は、江戸時代中期以降津守新田として開発が進められた地域である。
現在の西成区の区域は江戸時代、大坂三郷に勝間南瓜をはじめとする蔬菜類を供給する近郊農業地帯となっていた。
土壌が蔬菜栽培に適していたことや、大坂三郷近郊にあたり肥料類の入手に恵まれていたことが背景にあげられる。
蔬菜類は天満青物市場に運んで販売することになっていたが、市街地北部にある天満は現西成区域にあたる村からは遠方だとして、
道頓堀や湊町など大坂三郷南部での立ち売りも行われた。
立ち売りは天満青物市場との間でしばしば紛争となっていたが、1809年に13品目に限り難波一帯での立ち売りが公認されるようになった。
現在の浪速区にある木津市場は、大坂三郷南部での蔬菜類の立ち売りを起源として発展したものである。

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